FROM ボブ・バーグ
もう何年も前のことになるが、私はビルという人に出会った。彼はある大手企業のセールスパーソンとして表彰もされ、出会う人はみなメンターだと彼を崇めるほどだった。そんな彼に私はある相談を持ち掛けたことがある。「私が情報を用意しても、だれもそれを活用してくれないんですよ」と。すると、ビルはこう言った。
「あなたは人に対して自分の責任の範疇のことを果たせば、それでいいんです。その人がどうするかまであなたの責任だと思ってはいけませんよ」
結果に固執することの弊害
彼の言っていることとは、私のケースに当てはめるとこういうことだ。セールスやチーム育成において必要なのは、相手のためにあらゆる準備をし、情報提供を行うこと。でも相手がそれを受けてどう判断するか、どう考えるか、どう行動するか。それについては、自分の責任ではないのだ。
かつての私は、すべてを自分の責任だと考えていた。何かが起こると逐一それは自分のせいだと思っていた。場合によっては、すべてを正していかなくてはとさえ持っていた。でもその思いは言ってみれば不健康なものだ。それは、つまるところ「結果に対する不健全な固執」が生み出したものである。
もちろん、自分の周りで起きたことについて、振り返ることや何らかの評価をしたほうがいいこともある。しかし今思うに、自分ではどうにもならないような結果に固執しすぎて気に病む必要まではなかったと思える。
どうにもならないことを受け入れる重要性
さて、ここである本を紹介させてもらいたい。私は友人でありビジネスパートナーでもあるキャシーと頻繁に本を贈り合っているのだが、彼女から贈ってもらった2冊の本がある。
1冊目、マイケル・A・シンガーの『サレンダー』。2冊目は、同じ著者の『いま、目覚めゆくあなたへ–本当の自分、本当の幸せに出会うとき』だ。どちらもそれ1冊で完結しているすばらしい内容であり、ぜひ両方とも読んで欲しい。
さて、1冊目の『サレンダー』は「この世界には人には理解できないような大いなる計らいがある」ことを受け入れ、認めるところから始まる。著者のマイケルは瞑想に明け暮れる大学生で、まるで世捨て人のような暮らしをしていた。しかし、上記のことを悟り、大いなる流れに逆らうことなく身を委ねていった。
結果、どうなっただろうか?森の中で隠遁者のように暮らしていた彼は巡り巡ってきた出来事を受け入れ、ついには医療記録を電子化するためのプログラムを作るに至った。当時、このプログラムは革新的なもので現在ではスミソニアン博物館に収蔵されているほどだ。
彼はビジネス的な成功を収め、経済的にも豊かになった。とはいえ、彼は金銭的な結果を固執したのではなく、あくまで相手に付加価値を与えることに注力し、かつ自分自身の価値観に沿った人生を送ることを目指していた。
受け入れると、どうなるのか?
さて、ここで誤解のないようにもう1つ彼のエピソードをご紹介しよう。彼があるインタビュアーにこう質問されたことがある。「たとえば今あなたが猛吹雪の中、滑りやすい道で車を運転しています。車のコントロールが利かないと気づいたときあなたは、”これも大いなる流れだ”とすべてを委ねてしまうんでしょうか?」彼はこの質問に、こう答えた。
「もちろん生き残るためにできるだけのことはします。正しく走行できるように、いろいろ試みますよ。でも、その結果がどうなるかはわかりません。結果がどうあれ最善を尽くす、結果がどうなるかは神のみぞ知る、何事もそういうものであると私は考えているんです」
結果のために最善を尽くしたら、過度に固執するのはやめよう
これも結果に固執することなく最善を尽くすことの重要性をとしている。とはいえ、こうしたことは「言うは易く行うは難し」だ。私自身、固執していたさまざまのものを手放し、以前よりもだいぶ楽になった。しかし、それでも時々手放せずに固執して苦労することもある。誰であってもこうしたことを完全にマスターしたと言える状態まで持って行くのは難しいだろう。
重要なのは、自分にそういう問題があると気づくことだ。過度に結果に固執している自分。それはまるで自分が何かに縛られているような、あるいは何かに支配されているように感じるものだ。ぜひ、よくよく自分を見つめてみよう。
-PR-
「正しさ」よりも「思いやり」を優先すると、どんな組織になる?
↓