From 安永周平
前回のメルマガで「殴る」という行為の是非について取り上げたのだけど、今日はそのことについてもう少し掘り下げてみたい。とはいえ、既に前回のメルマガから1週間が経過しているので、今日はいきなり結論から入ってしまおう。私の個人的な考えを伝えることで、あなたが今日の話について何しら考えるキッカケになれば幸いである。
部分否定ができない幼稚な大人
結論から言うと「殴らなければならない時もある」と考えている。時と場合による。前回も少し話したように、自分の子供が悪事に走りそうになって聞く耳を持たない時、私は手をあげるだろう。それで子供は傷つくかもしれない。ただ、相手のことを想う真剣な心を持ちがあれば、一時的に相手の心を傷つけてでも厳しく叱る。聞く耳を持たない場合は痛みを与えることも必要だ。
教育には「①教える、②注意する、③叱る/褒める、④罰する/賞する」の4段階があると言われている。家庭教育も学校教育も社会人教育も同じだ。もちろん殴らないで済むならそれに越したことはない。しかし、注意しても直らなければ叱る。叱る側は相手の心が傷つくことも承知のうえで叱る。それでも相手が行動を改めれば成功だ。
こうしたことを考えることなく「殴る=暴力だから絶対に許されない」と声高に叫ぶのは、とても幼児的な発想ではないだろうか。単純な善悪で物事を判断する人は、全否定か全肯定の2枚の紙でしか物事を考えない。その中間の遊びの部分がない。部分否定ができない人は考え方に幅と深みがなく、心の余裕も生まれない。ここに二元論の危うさがある。
殴られなかった大人はどうなるか?
「殴る」ことの話に戻ろう。親や先生に殴られたことのない子供は、殴られた痛みを知らないのはもちろん”殴り方”も知らない。殴られたことのない子供が知っているのは、テレビやゲームの世界で正義の味方が悪者を懲らしめるやり方だけだ。そこに影響され続けると「悪者をこの世から消滅させることが自分の幸福に繋がる」という、勘違いで薄っぺらな正義の味方の意識が生まれる。
残念ながらTwitter等のSNSを見ていると、この”正義の味方”が湧いてきて世論のようなものを作るケースをよく目にする。こうした人が結婚して子供を授かり親になってしまうと「しつけや教育のための殴り方」ができない。これはOKだがこの場合はNG…という部分否定ができず改善も促せない。どうにも我慢できなくなると、子供を全否定して虐待…なんてことにならないだろうか。
社会に根を張る危険な風潮
家庭で親が子供を教育できず、学校で先生が生徒を教育できなくなっている原因の1つに「相手にどんな非があっても傷つけてはいけない」という考え方があると思う。この考え方が社会にビッシリと根を張って「絶対に正しい」という顔をしているので、教える側の腰がひけてしまっている。
それでも「聞き分けのない子を教育するには殴るしかない」という部分否定が大人の考え方ではないだろうか。経験不足な若手社員が単純な善悪だけで判断するのは仕方ないが、社長や経営幹部などリーダーの立場にある人間が”薄っぺらな正義の味方”に迎合してはならないと思う。リーダーたるもの、厳しさを肯定し、周囲に納得してもらうだけの行動を示さなくてはならないと思う。
白黒ハッキリさせなくていい
繰り返しになるが、何事も白黒ハッキリさせる「全否定 or 全肯定」の二元論で物事を考える必要はないと思う。むしろ、その考えは自分を生きづらくするだけではないだろうか。ある心理学者が「白と黒の間にはグレーがあるので、そもそも白か黒かでは心がおかしくなる」と言っていたそうで、決めつけは自らの可能性をも小さくしてしまう。
先日のスノーピーク社長の解任劇を見ていると、社長を叩く世論が巨大に膨れ上がっていくことに違和感を抱いた。そりゃ既婚男性と不倫するのはよろしくないが、私のようなアトツギの立場から見るとリーダーシップや経営手腕としては眼を見張るものがあった。それなのに「人として最低だ」みたいな全否定意見が多くてなんだかなぁと思う。おまけに容姿まで叩く…いい大人のやることではない。
どんな人にもいいところと悪いところがある。完璧な人などいない。気に入らない点が1つあるからといって「あいつはこの世から消滅すべきだ」と考えるのは極めて幼児的な発想だ。相手のいいところに目を向け、そのうえで厳しさを持って接することができる社長に私はなりたいと思う今日この頃だ。さて、今週も頑張っていこう。
PS
先週、今回のネタ元となった書籍『社長は「鬼」の目で人を見抜きなさい』を紹介したら、結構たくさんの人が買ってくれたようだ。キレイごと抜きで書いてあるので、性善説で生きたい人も「対極を知る」ことで考え方に幅と深みが生まれ、心の余裕も出てくるのでぜひ読んでみてほしい↓