FROM ボブ・バーグ
謙虚さ(humility)は、人間の素晴らしい資質の1つだとよく言われる。ただ、この謙虚さについて特に西洋の文化において誤解されていることもある。というのも、西洋では「謙虚な」人と聞くと、どうも臆病そうな、自信が無さそうな素振りの人が想像される傾向にあるからだ。
ユダヤ人にとって最も謙虚な人物
ところで、昔私はロリ・パラトニック氏と共著で『Gossip(ゴシップ)』という本を書いたことがある。その中でユダヤ人における「謙虚さ」というものをテーマに取り上げた。ユダヤ人にとって最も謙虚な人物として認識されているのはモーセになる。(※モーセは奴隷になっていたユダヤ人をエジプトの支配から解放した人物。)
しかし、聖書で語られるモーセは謙虚な人物であるとは少し言い難いかもしれない。なんなら彼はエジプトの権力者であるファラオに立ち向かった男だ。彼はファラオに「あの…もしよろしければ、ユダヤの人々を解放していただけないでしょうか」などと弱々しく頼み込んだわけではない。
むしろ、勇敢に「王よ、人々を解放せよ」と立ち向かったとされている。結果、奴隷となったユダヤ人を引き連れ、約束の地へ導いた。そんなモーセが弱々しいだとか恥ずかしがり屋だなんて、ちょっと考えられないだろう。
謙虚さを生み出す「2つの要因」
では、どうしてモーセはユダヤ人にとって「謙虚さの鑑」などと言われるのだろう?それは謙虚さとは「自分は偉大な人間ではない」と考えるのではなく、むしろ「自分は偉大な人間だ」と考えるところに始まる。そう、言うなれば「自分自身に誠実な評価をしている」ことだと言えるだろう。
例えば、相手に提供できる価値が素晴らしいものだという評価を持っていれば、そこを敢えて低く見せる必要はない。それと同時に本当の意味で謙虚な人とは自分の偉大さが「何に由来しているか」を自覚していることだ。そう、自分の偉大さや成功の理由や原因を知っていること。
これこそが本当の謙虚さだと言える。ただ、宗教を信じる人々とってはその根源は”神”なのかもしれない。とはいえ、すべては神から授かったものなのだと言いたい訳ではない。ただ重要なのは、自分の素晴らしさは”自分だけに由来するものだけではない”と考えられることなのだ。
傲慢さと謙虚さの決定的な違い
もちろん、何かに成功した時、それは多くの時間や労力を費やしたり、たくさんの失敗を経験したからかもしれない。他にも他の人がやらないことをしたり、他の人にないものをあなたが持っていたりしたからかもしれない。当然、その成功は大いに喜ぶべきことである。
しかし、「全て自分のおかげだ。誰の助けも借りなかった」と考えてしまうこと。これこそが傲慢さだ。一方で、謙虚さは「自分はできる限りの責任を果たした。そして、さらに今に至るまでに多くの助けを得てきた」と考えられることだ。
もっと言えば、健康な身体(からだ)で生まれ、健全な精神を持ち、あらゆる機会が得られる時代と場所に生まれてきたこと。そこで自分と共に働く人たちと、自分の力になってくれる人たち…。こうした幸運なしに果たして今の成功はあっただろうか、と常に考えられること。これこそが謙虚さなのだ。
自分本位によって傲慢さが生じ、相手本位によって謙虚さが生じる
もしあなたに家族がいて、仕事が順調だというのなら、あなたはそれにふさわしい人間であるということでもある。あなたはそのために努力をし、必要なリスクを負ってきた。それは誇りを持つべきことだ。しかし、それを鼻にかける真似だけは決してしないよう注意しよう。
自分のことばかり考えていると、謙虚になるのは難しい。しかし、自分が成功を収めたり、何かを達成したりしたときこそ、それが自分の力だけではなく、あらゆる幸運と助けによるものと気づけば、謙虚になるのは簡単でもある。このことについて、著名な作家として知られるルイス・キャロルもこう言っている。
「謙虚さとは、自分について考えないことではない。自分のこと以上に他人のことを考えることなのだ」
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